ウトロ地区

私が小6の時だったと思います

社会か、道徳の授業の時

差別について勉強しました

そこで初めて知った事があります

部落」という言葉が差別であること!

授業をしていた先生は本土から来た先生で

「僕は初めてこの島に来た時、部落と言う言葉を大人も小さな子供も、みんなが普通に使っていてとても驚いた。それと同時に、この島大丈夫か?となんとなく怖くも感じた。だからみなさんは卒業して本土に出た後、私は○○部落など言わないようにした方がいいと思います。この島以外の人にはそういう免疫がありませんからね」

と言われて、私はショックでもあり

先に教えてくれてよかった・・・とも思いました

私が住んでいた島では、普通に

「私○○部落に住んでる」とか

島民運動会の島民リレーでは

「○○部落早いです!」

「○○部落頑張ってください!」とアナウンスが流れます

登下校の時に並ぶときだって

「部落ごとに1列に並んでね~」と先生も生徒も

みーんな使っていました

だから私は「部落」と言う言葉を

「地域名」と思っていました

まさか差別用語だったとは・・・!!

私はこのことを思い出すことはあまりないのですが

最近フラフラーっとネットを見ていると

少し前の記事ですが

ウトロ放火事件の記事を見て、思い出しました

なので今日はこのことを勉強していきたいと思います

宇治ウトロ地区放火事件

2021年8月30日

京都府宇治市にある

ウトロ地区で発生した放火事件

ウトロ地区は在日コリアン集落

在日コリアンと言うのは

もともと朝鮮半島(今の韓国や北朝鮮)に住んでいたけど

日本に移り住んできた人たちの事

「日本のスラム」と呼ばれることもあり

京都の人たちは

「絶対近づいてはいけない場所」と言われていたこともある

ウトロ地区はサッカーコート10面分くらいの大きさ

なかなかの小ささですね

ウトロ地区の近くには自衛隊の基地がある(陸上自衛隊、大久保駐屯地)

この場所は、戦時中、日本軍の基地があった

戦前まで大久保駐屯地には、飛行場と飛行機工場があった

そうなると、飛行場を作る人や飛行機工場で働く人が必要になって

そこに朝鮮半島から「やります!」と朝鮮人がやってきた

当時は2000人ほど働いていたけど、その半分以上が朝鮮半島出身者だった

1910年から1945年まで、朝鮮は日本の一部だった

朝鮮の人も日本の国籍だから

沖縄や九州から海を渡って東京に仕事をしに行くのと同じように

朝鮮からも京都に仕事をしに来ていた

飛行場で働く人を募集します!と言われて

朝鮮半島から来た人たちが泊るところ

それがウトロ地区だった

1945年8月に太平洋戦争が終わる

そうなると戦争のための飛行場だったから

そこで働いていた人たちは用無しになる

太平洋戦争で負けた日本は、アメリカの言いなりになり

「日本は朝鮮半島を手放しなさい。そして在日コリアンの人たちは朝鮮半島に帰りなさい」

という指示がアメリカから出た

なので、大多数の朝鮮から来た人たちは帰って行ったけど

帰国するまでの船賃が足りない人や

ウトロに住み続けたい!と言う人が居座ることになった

でも、ウトロにある土地や建物は

戦時中に飛行機工場などで働く人たちのためにある建物

要は下宿先のようなもの

建物自体は、日本軍から飛行場の建設を請け負った

民間会社の持ち物

という事は、飛行場で働いているわけでもないのに、その場所に住み続けていたら

建物や土地の不法占拠になる

これが不法占拠にあたるかは

朝鮮半島から強制的に連れてこられたか否かだった

もちろん強制的にではなく、自らの意思で来ている人ばかりだった

軍事工場で働いている人は、お国のために働いているから

と言う理由で徴兵を免れた

そりゃあ戦地に行けば、生きて帰ってこられるかもわからないのだから

喜び勇んで軍事工場に来たことでしょうね!

住み込みで働いていて

仕事終わったけどこの部屋ください。はいどーぞ!

とは、なるわけがない!!

実際にウトロ地区の持ち主とウトロ住民の間で裁判もやっていて

2000年には「ウトロ地区の人は不法占拠している」という判決も出ている

不法占拠されていると、いろんな問題も出てきた

不法占拠している場所はインフラが未整備である

だから当時のウトロ地区はプレハブ小屋があるけど

電気も水道も通っていない町になった

1988年に整備されることになった

1943年からそれまで水道なしで生きていた・・・!!!

それもまたすごいな!!

朝鮮に帰ったほうが

いい暮らしできるんじゃないかと思ってしまいました・・・・汗

整備されるまでは

生活水は井戸水で、お風呂は3日~4日に1回銭湯に行っていた

トタン屋根で壁も薄いベニヤ板

なんとなく暗くて不気味な感じがする建物の中に

お風呂に入っていない人がいる・・・

しかも

ウトロ地区の持ち主「不法占拠してるんですよ!出て行ってください!!」

在日コリアン「嫌だ!出て行かないぞ!!」

もめまくって常にピリついている

それは「日本のスラム」と言われてしまうと思います

そこから、ウトロ地区の人たちに対する差別が始まる

はっきり差別が出たのは子供だった

ウトロ地区の子供も学校に行っていたけど

「ウトロの奴らと遊んじゃいけないよ」

「ウトロの奴らは臭い」

などと言っていじめられた

その究極系の差別と言うのが

宇治ウトロ地区放火事件

だった

建物5棟が全焼、2棟が半焼の大火事

幸い、空き家ばかりが燃えたから死傷者はなし

放火した人は、在日コリアンを快く思っていない人で

「日本人でも生活保護を受け取りたくても受け取れない人がいるのに、在日コリアンの人たちが受け取っているのが許せなかった。おかしいだろ。この気持ちをより多くの人たちに知ってもらうために、火をつけた」

と言っているそうだ

実際、ウトロ地区の20%くらいの人が生活保護を受け取っている

在日コリアンの人を気に入らない

ここは嫌いな人が住んでいる家

どうせこの家は不法占拠しているから

燃やしてしまえ!

これは完全に差別感情がある。。。

不法占拠の問題は

不法占拠である。と判決が出た後

「この家、土地を自分たちで買い上げるか帰国するかしてください」

と言われて、韓国からの寄付金や韓国政府からのお金で4億ほどのお金が集まった

そのお金でウトロ地区を買い上げていた

だからこのウトロ地区は

きちんと合法的に住んでいる在日コリアンの人たちのものだった

そうなるとウトロ地区の人が生活保護をもらっていても

日本で生活保護をもらって生活している人と同じになるから

生活保護貰うのは

日本人はOKだけど、在日コリアンはNG

と言うのは完全に人種差別になってしまう

ウトロに住んでいる人たちは高齢者ばかりになってきていて

今では差別などは、ほとんどなくなってきている

高齢化は進んで

もうほとんど人も住んでいないような状況になっているので

殺伐とした雰囲気はなくなった

昔のウトロを後世に残していくために

ウトロ平和記念資料館というものがある

差別の事を伝えるためにも、このような資料館があることは大事だと思う

ウトロ地区、もう少し年月が経つと

完全に生まれ変わって地名も変わったりするのかな・・・

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